ゲームをアートな視点から見ると、インディーゲームはファインアートを目指すべきかもしれない。

ゲームとアートの関係について考えた結果、インディーゲームはファインアートを目指すべきかもしれないという結論になった話。

  

はじめに

まず断っておくと、俺は芸術・アートに詳しいわけではない。知識は他人から聞きかじったり、ネット検索で得た断片的なものに過ぎない。その上で、間違っていないことを祈りつつ話を進める。

全ての文末に[*個人的見解]をつけるくらいの気持ちでも読んで欲しい。

芸術の二つの顔:ファインアートとアプライドアート

芸術は一般的に、ファインアート(純粋芸術)とアプライドアート(応用芸術)に分けられるとされる。
(※ファインアート – Wikipedia 参照。他にちょうど良いサイトを検索で見つけられず断念。)

  • ファインアート
    純粋に芸術的な価値や表現を追求するもの。絵画、彫刻、詩などが該当する。
  • アプライドアート
    実用性や機能を持つもの。建築、工芸、デザインなどが該当し、しばしば「デザイン」とも呼ばれる。

この分類は必ずしも明確ではなく、グラデーションのように曖昧な領域もある。例えば、写真は芸術性と記録性の両方を持つため、どちらか一方に完全に分類することは難しい。  

では、ゲームはファインアートとアプライドアートのどこに位置しているのか、位置しがちなのか。

ゲームは芸術にどう位置付けされるのか?

ゲームとは、動画や音楽、テキストなど様々なメディアを組み合わせた「総合芸術」と言える(ゲームの芸術性には議論があるが、ゲームは芸術・アートであるという前提で話を進める)。加えて、ゲームは単に総合芸術というだけではなく、その中にもさまざまな種類や傾向がある。

ここで俺は、ゲームの芸術的な立ち位置は、その制作規模や目的によって変わるのではないかという仮説を立ててみた。

  • 大手ゲーム会社のゲーム
    大規模な予算と開発体制で制作されるため、ターゲットユーザーも広範囲に設定される。こうしたゲームはエンターテインメント性を重視し、高度な技術やデザインが求められる。これらはアプライドアートの側面が強いと言える。
    (例:「サイバーパンク2077」は約3億3000万ドルの制作費がかかったと言われている。Cyberpunk 2077: Sony pulls game from PlayStation store after complaints | Games | The Guardian Keza MacDonald and agencies Fri 18 Dec 2020 09.34 GMT。アクセス:2023.12/10現時点)
  • インディーメーカーのゲーム
    一方で、個人や小規模なチームによるインディーゲームは、規模も予算も小さい。それゆえ、大企業のゲームに比べて独創性やメッセージ性が重視される。これはしばしば「作家性」とも表現され、ファインアートの側面が強いといえる。

もちろん、これはあくまで一つの見方であり、ゲームを単純に二分することはできない。ゲームも例に漏れず、ファイン/アプライドに、グラデーションで立ち位置が存在する。

インディーゲームは何を目指すべきか?

では、インディーゲームのクリエイターがアプライドアートを目指すべきではないのか?

必ずしもそうではない……が、大手企業とアプライドアートで競争するのは、リソースの差を考えると現実的ではない。

インディーゲームでは、最低限プレイヤーが不快に感じないレベルの「実用性」を確保しつつ、独創性やメッセージ性を追求することが重要だ。そして、それこそがプレイヤーがインディーゲームに求められている要素である。

まとめ:インディーゲームはファインアートを目指すべき

結論として、インディーゲームはファインアートを目指すべきだと考える。大手企業のように多くのリソースを投入できるわけではない以上、インディーゲームの強みである独自性を活かし、より深い表現を追求することが重要だ。

ちなみに俺自身、以前は「ちょうどいいゲームをデザインする」という方向性を模索していたが、上手く行かずに多数のゲームを破棄してきた経験がある。これからは、より「尖った」作品を目指していこうと思う。

きっとインディーゲームの意義は、独創性とメッセージ性にこそある。「癖(へき)」を盛大に出していこう。

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