俺たちは日々、様々な情報に触れている。しかし、その情報の中には真実とは言えないものや、自分の都合の良いものだけを選んで信じるものもある。人は何を参考に情報を取得し、正しいと判断し、知識として蓄えていくのか。そしてなぜ陰謀論にハマってしまうのか。考えてみる。
そもそも情報ソースにはどのような種類があるのか。一般的には、以下のような分類、定義がされている。
- 第一次情報源:直接的に情報を生み出すもの。例えば、実験や観察、調査など。
- 第二次情報源:第一次情報源をまとめたり、分析したり、評価したりするもの。例えば、レビューや解説、論文など。
- 第三次情報源:第二次情報源をさらに整理したり、索引したり、参照したりするもの。例えば、辞書や百科事典、データベースなど。
これらの情報ソースは、それぞれに信頼性や正確性、客観性などの特徴を持っている。
しかし、俺たちは必ずしもこれらの情報ソースの種類や特徴に基づいて日々の情報を選んでいるわけではない。この分類、定義は日々の情報選択の際に、おそらく、ほとんど全くと言っていいくらいに無視される。そして、無意識のうちに、情報の優先度は、ただ各自の選好性によって選択される。
そして結局、情報ソースとしての優先度は高い順に
- 信頼している人
- 静的な媒体
- 動的な媒体
- 信頼していない人
となりがちだ。以下、それぞれの項目を解説していく。
1,4番目の信頼している人/信頼していない人について
信頼している人間とは、例えば親しい友人や家族、尊敬する先生や専門家、同じ価値観や思想を持つ人などだ。他方で、信頼していない人間とは、自分と対立する意見や立場を持つ人、自分にとって不誠実や不道徳な行動をとる人、無知や偏見を持つ人などだ。
2,3番目の静的/動的な媒体について
静的な媒体とは、一度発行されたら変更が困難なもので、出版社やメディアの検閲や校正を経ている書籍や動画などだ。他方で、動的な媒体とは、インターネット上のウェブサイトやブログ、SNSなどで、誰でも簡単に情報を発信や編集ができるものだ。
さて、もう一度、情報ソースを優先度が高くなりがちな順に挙げていく。
- 信頼している人
- 静的な媒体
- 動的な媒体
- 信頼していない人
の順番だ。
俺たちが情報を入手/受け入れる際には、情報ソースの信頼性や編集性によって、上述したように優先度をつけがちだ。
なぜなら、信頼している人間からの情報は、自分の価値観や認識と一致する可能性が高く、また遠慮して反論や批判がしにくいと感じるからだ。そして静的な媒体からの情報は、権威や専門性があると認められやすく、また変更や削除が困難なため、信頼できると考えられる。
他方で、信頼していない人間からの情報は、自分の価値観や認識と矛盾する可能性が高く、また反論や批判がしやすいと感じられる。そして動的な媒体からの情報は、編集や改ざんが容易で、また多様な意見や情報が混在しているため、信頼性が低いと考えられる。
このように、俺たちは情報ソースによって情報の受け入れ方を変えることがあるが、これらは決して論理的な判断ではなく、おそらく、ほとんど感情によって無意識のうちに選択されている。
つまり、自身がいる環境(人間関係と触れる種々の媒体)によって、入手/受け入れられる情報が決まる。俺もお前もだ。多少は抵抗できるだろうが、ほとんどの人間はこの環境から逃げることはできない。俺たちは無力だ。特別ではない。
さて、俺たちは、自分の周りにある情報に影響されやすく、自分の価値観や信念に合致する情報に惹かれやすい。これを確証バイアスと呼ぶ。確証バイアスとは、自分の意見を裏付ける情報を探したり、自分の意見に反する情報を無視したり、自分の意見に都合の良いように情報を解釈したりする傾向を指す。確証バイアスに陥ると、自分の思い込みや先入観を強化し、誤った判断や行動を引き起こす可能性が高まる。
では、どうすれば確証バイアスを克服できるのか。分かりやすい方法の1つとして、論理的、科学的な情報に基づいて判断することが考えられる。論理的、科学的な情報とは、客観的に検証されたり、再現性があったり、複数の情報ソースから裏付けられたりするものだ。論理的、科学的な情報には情が入り込まないので、自分の感情や偏見に惑わされないようにすることができる。
しかし、論理的、科学的な情報に基づいて判断することは、決して簡単なことではない。論理的、科学的な情報を探すには、たいてい多くの時間や労力が必要になる。また、論理的、科学的な情報に基づいて判断すると、自分の意見や信念が間違っていたことを認めなければならない場合もある。
自分の間違いを認めることは、心理的に苦痛だ。なぜなら自身が選択した立場や判断、今いる環境を誤りや失敗だったと否定するのは難しいからだ。誰だって、自身が間違ってしまった愚かな人間と思いたくない。
誤りを認めなければ、正しい情報を受け入れられる環境には辿り着けない。つまり、正しい情報を得るためには、心が強くなければ、自立しなければならないのだ。
次は情報ソースを陰謀論と結びつけてみようと思う。
陰謀論とは、一般には、政治や社会の出来事に隠された秘密や陰謀があると主張するものだ。
なぜ陰謀論にハマる人が出てしまうのか。陰謀論にハマる人は、自分の都合の良い情報を選んで信じ、自分の都合の悪い情報を無視する傾向がある。
都合の良い情報とは、自分の価値観や認識と一致する、理解できる非常に心地が良い情報のことだ。都合の良い情報は、自分の間違いを認める苦痛とは真逆だ。心地の良い情報は、知識や能力を高めたというような自己効力感、自己肯定感を得られるのだ。そして、それは大きな充足感、快感だ。
陰謀論は、おそらく自分の不安や不満、不信感を解消するための心理的な防衛機構として機能している。なぜなら、陰謀論によって自分の不安や不満、不信感を解消するために、世界に秩序や意味を見出せるからだ。また、自分が特別な知識や情報を持っているという優越感や自尊心を満たせるからだ。
そして得られた情報から、さらに都合の良い情報が選ばれるようになり、負の循環が生まれてしまう。
おそらく陰謀論者の特徴は、下記のような確証バイアスに陥りやすい人の特徴とも重なっているだろう。
- 不安や不満、不信感を抱いている
- 自分のコントロール外の出来事に対して無力感を感じている
- 簡単な説明や解決策を求めている
- 自分のグループやアイデンティティに強く固執している
- 異なる意見や視点に対して閉鎖的である
やはり、心が強くないことが原因だろう。
さて、最終的な結論は「より良い真なる情報を得るためには、より良い環境へと自らを追い込む必要があり、思考を停止してはいけない」だ。
より良い環境とは、信頼できる情報ソース、つまり論理的、科学的な情報を提供する情報ソースにアクセスできる環境のことだ。
思考を停止してはいけないとは、自分の意見や信念に固執せず、異なる意見や視点に対して開かれた姿勢を持ち、冷静に自分の間違いを認める勇気を持つべきだということだ。
インターネット上(さらにはAIチャットまで)にあまりにも情報があふれている時代に、情報の取捨選択と選好性について、俺たちは常に自分自身に問いかける必要がある。
インターネット上の膨大な情報には、真偽や出所が不明確なものや、操作や偏向があるものや、誤解や混乱を招くものなどがある。また、自分の意見や信念を裏付けるものばかりに目が行きがちで、自分の思考や判断を鈍らせる可能性がある。
その激流の中で、俺たちは意志と勇気を強く持つ必要がある。そして自分の意見や信念に反する情報にも積極的に触れることや、自分の意見や信念を客観的に検証、批判的思考を行うことで、俺たちは初めて、より良い真なる情報に触れることができるのだ。
俺たちは、何を信じているのか。何を信じるべきなのか。本当にしんどい世界だ。