「価値観の違い」という表現は、何らかの二択以上の選択肢における究極的な解答の議論を放棄してしまっている。諦め・妥協の結果生まれる敗北の選択だ。
などと思っていたことがある。いつからか気にしなくなっていたと、ついさっき気付いた。
今ふと、そんな会話が発生する状況を想像してみたところ……そもそも日常会話に議論を求める人は少なく、世間話に出てくる会話のほとんどでは究極的な解答なんてそもそも誰も求めていないと気付いた。当たり前のことだ。何を今更……。
他人の価値観をわざわざ書き換えるほどの時間をかける意義・メリットなんてほとんどの会話ケースで無い。これは時間のムダなので「価値観の違い」とするのが明らかに合理的。
会話で議論が発生した場合には、そもそも深入りする価値があるかどうかを判断するべき。ここで論破する事が会話の勝利条件に必ずしもなるわけではない。
その為にもまず、何のために会話をしているのか自覚するべき。例えば、議論に勝ちたいのか、少しでも普遍的な真理に近付きたいのか、会話を楽しみたいだけなのか。有限である自身の人生の時間を大切にする為にも、もし不要な議論だと気付けた場合は「価値観の違い」と結論づけて話題を変える・会話を打ち切る方が良い。俺たちは人生というステージで勝つべき。

