思考を借りること

誰かの考えを自分のモノにする際はちゃんと批判的思考しないといけないという話。

 

先日、作品の感想は周囲の人間の感想で決まる、といった旨の文章を読んだんスね。以下リンクと引用です。

鬼滅の刃は何故面白いのか=作品の感想を自分で考える時代は終わった→そして起きること
「鬼滅の刃は面白い!」これは間違いないのだが、俺=新世代=SNS世代の作品鑑賞方法で発見したことがある。というか別に鬼滅に限った話じゃな…

要するに、鬼滅という作品を読む・観るなりして、泣く、キャラを好きになる、続きが気になる、技がカッコイイと思う。
これらの感情を、コンテンツを楽しんだ本人ではなく、最早他人が決めているということだ。
作品の評価を自分で決める能力が、「俺=新世代=SNS世代」にはもうないのだ。

(中略)

「視界内の人間が好きだと言っているから作品を好きになる」のであり、「視界内の人間が嫌いだと言っているから作品を嫌いになる」

もちろん全員が自身の感想を持っていない訳ではないと思うんスけど、概ねこの傾向はあるように思います。自身で感じた事を反芻して、整理して、そして文章化しなくても、それっぽい感想は SNS 上で溢れてますし、大多数の人が省エネの為に感想まで誰かの物を借りるようになっても、これはこれで自然な事だと思うンですよね。人間はラクするように出来ている。

実際、自分も twitter や Google で「(作品名) (感想)」と検索する事があるんスけど、これって自身の感想が本当に正しい(一般的に認められている)のかの確認と、より深い理解、分かりやすい言語化を、お手軽にやりたかったンだと思います。

人間は弱い。

 

と、マァ、こういった「感想の引用」は別に問題が起きなさそうで良いんスけど、さすがに「思想の引用」は良くないなァと思います。

twitter 上では、感想に限らず誰かの思想をそのまま引用して、自分の意見のように強く批判的なツイート/リプライしてしまう人をいくらか観察しています。

これには「分かる」みたいな安易な引用リツイートでの報告も含まれるでしょう。
(先日これについて書いた記事もあるので、よろしければ下記もご確認下さい)

色々な物事の善悪について、本当はどうでもよくて、全く本人は気にしていなさそうな立場に思えるのに、他人の意見を焼き直しで薄く語り、それをわざわざ表現する事で自分の意見だと思わせよう/思い込もうとしているようにしか見えません。
(例として、よく話題に挙げられるのは 「Vim / Emacs のエディタ論争」だとか「エクセル方眼紙は悪」だとか「政治(最近だと米大統領選挙)」とかでしょうか。)

他人の意見をそのまま借用しただけの批判は、手軽にアイデンティティを得て理解した気になれますし、気持ちよくなれるマウントの為の手段となりますし、反論されても「他人の意見だから」とダメージが少なく済むンで、とても便利な道具だと思います。さぞ楽しいでしょうね。

ただ、この傾向が強まると、批判される対象の、実際に議論される内容とは関係なく、なんとなくカッコいい強い意見を言っている人の思想がそのまま拡散していく事になるンじゃないスかね。不要な争いと誤解が生まれる原因になると思います。

 

もちろんこういった内容に対して「きのこたけのこと一緒、面白半分でネタとして便乗しているだけだから」と言い訳する人もいそうですが、ネタにしたところで批判の本質がブレて真意が伝わりにくくなり、更に誤解が増えるだけですし、少しでも批判の気持ちがあるのなら止めたほうが良いと思います(例えば一時期 twitter で流行した「アベのせい」みたいなネタです)。

 

何かを評価して発信する際には、ただ闇雲に便乗するンじゃなくて、ちゃんと批判的思考で自身の意見としてから発信した方が良いですね(自省を含む)。

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